『西郷どん』から見た「尊王攘夷」をわかりやすく読んでみる!

作品・メディア
尊王攘夷
スポンサーリンク

こんにちは!

やすです。

大河ドラマを見てて思うわけですよ。

今年の『西郷どん(せごどん)』にしても『花燃ゆ』、『八重の桜』、『龍馬伝』、『篤姫』、『新選組!』などとりわけ江戸幕府末期~明治維新の話は多い。

調べてみるとなんと大河ドラマの一番目の作品が『西郷どん』では悪役として大いに活躍する井伊直弼を主人公とする『花の生涯』だったのが驚きなんですが、とにかく戦国時代についで幕末話の人気の高さは50年以上昔から変わらずなんですね。

その幕末話は江戸幕府において徳川に近い親藩、力をつけてきた雄藩や志士と呼ばれる人たちがお互いに正義と主張する思想において、対立したり力を合わせたりと日本の行く末に向かって渦巻いていく世界であり、まさに激動と呼ぶにふさわしい時代を表している。

そのなかでひときわ多く出てくる単語が「尊王攘夷」思想です。

尊王」と「攘夷」はもともと別々の出所であり、それぞれに対立する思想もあり?人によっては途中から思想が変わってきたり、同じ「攘夷」でも違う意味合いがあったりと、相関図的なものは単純ではなく、刻一刻と変わっていくのも幕末話の特徴でもあり、歴史を理解する上でのネックになる部分でもあり、醍醐味であったりもする。

そんな幕末の思想の話を「尊王攘夷」を中心に簡単に説明していきたい。

スポンサーリンク

攘夷と対立するのは開国なんでごわすか?

鎖国時代が続いていた時代にあってはそうだったのかもしれない。

もともとは中国からきている言葉で、夷は外敵を指し、攘は排撃するの意味になるので当然鎖国思想とのつながり的にはほぼ同じといってよいのです。

そんな折に大老の井伊直弼(佐野史郎)が勅許なし日米修好通商条約を結んでしまったために、鎖国は完全に崩れたが、攘夷思想は分裂して残ることになる。

つまり攘夷と対立するのは開国ではなく、鎖国と開国が対立することである。

この一時期の状況では攘夷思想をもっていながら、開国をしたという表現が矛盾せずに存在することになる。

開国論者の代表的な人は本居宣長や吉田松陰の師である佐久間象山勝海舟(遠藤憲一)がいて、井伊直弼は鎖国派であったが、流れ上で開国派ということになってしまう。

これはいち早く海外の文化水準の高さを知った人たちが貿易によって多大な利益が見込めるということにたどり着いたことが一つと、欧米列強のように植民地主義に繰り出すといった隠れた考えもあった。

分裂した攘夷思想とはなんでごわすか?

開国した後、鎖国思想は無意味なものと思われがちだが、攘夷思想が2つに分かれることになる。

一つは元々の攘夷思想を硬く守ることに重きを置く人たちで、あくまでも日米修好通商条約を撤廃して鎖国を貫くべきだと考える人たちのことである。

もう一つは開国した以上どうせなら外国の武器や文化の良いところをいち早く吸収して、富国強兵をなしてから攘夷を実行するという思想のことである。

はじめは意見が割れていたが、幕末雄藩の筆頭を争う薩摩長州があっけなく外国に敗戦した事実を聞いて、後者が圧倒的に主流になり、攘夷論者であるかどうかよりはこの先は佐幕倒幕かが重要になってくる。

スポンサーリンク

尊王の対立する思想はなんでごわすか?

この尊王思想においても先ほどの攘夷と同じように対立するのが佐幕とよく言われているが、佐幕と対立するのが倒幕であり、尊王と対立する思想は日本の天皇を批判することになるためにありえない。

一時的な体制として公武合体というものがあり、これは幕府と朝廷が力を合わせて海外勢力と渡り合うという考えであるが、武力の象徴として政治をする幕府がわざわざこれをしてしまっては、幕府の意味がなくなるわけであくまでもその場しのぎの体制ということになる。

佐幕と倒幕とはなんでごわすか?

佐幕とはあくまでも政治の中心である幕府を佐(たす)けるという思想であり、日本が神の国であり、最上位はあくまでも天皇であるという尊王思想を犯すものではない。

だから新撰組(新選組)のように尊王攘夷思想をもっていながら、佐幕派であるという理屈はごくごく自然のことなのです。

『西郷どん』の薩摩藩は最初から尊王攘夷を内容は時々において変えながら貫いているが、幕府を倒して新政権を樹立し、その新政権の中心に薩摩が座ることを描きながら、倒幕の姿勢をとっていったということになる。

スポンサーリンク

まとめ

思想の違いでよくわからないことが多いが、ほぼみんな尊王攘夷である。
大事なのは刀(武士の魂)なのか銃(最新兵器)なのかということと、佐幕か倒幕かということである。

以上、やすがお送りしました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました