『西郷どん』の「井伊直弼」の性格などについてわかりやすく解説(佐野史郎)

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こんにちは。

やすです!

井伊直弼佐野史郎)は『西郷どん』でも安定の悪役として登場してますね。

数ある幕末の話ではほとんど井伊直弼は悪い人として出演してくれてますが、実際はどんな性格だったのか非常に興味ないですか?

そんな悪役に抜擢された佐野史郎もたまったもんじゃないと思ってるかもしれませんが、案外「おいしい」とも思ってるかもしれませんね。

というよりあの目つきで善人役はありえないですよね~(言い過ぎ?井伊だけに・・・)

実際は藩主として務めた彦根藩(滋賀県)では領民の人達からは慕われていたようで、行った藩政改革は幅広い人達に評価されています。

それを裏付けるように初代1953年大河ドラマ『花の生涯』ではなんと井伊直弼が主人公なんですよ。

ではなぜそんなにも悪役のイメージがついてしまったのでしょうか。

それは井伊直弼の武士としての忠義心と真面目な性格で、そうせざるを得なかった幕政改革によるものなんですね。

ここでは「こんなはずじゃなかった」と言ってしまいそうな井伊直弼のことを書いていきたいと思います。

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もともとは藩主とは関係なかった?

1815年の産まれだが家督相続とは無縁とも思える位置づけなのであくまでも補欠の中でもさらに下の方だったようです。

第13代藩主井伊直中の十四男として近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)の彦根城の二の丸で生まれる。母は側室のお富。

兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もなく、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごした。

この間に茶道について学び、茶人としても大成するほどの才能であったというほどですから、おそらくこのままいけばほんとに幸せなまま長生きできたのかもしれないですね。

その後、あれよあれよという間に後継者になって、先代の死去のために藩主となってしまう。

客観的に見ると棚ぼたのような感じもうけますが、本人にとってみれば「せっかく茶人にまでなったのに、今更政治にかかわらないといけないのか」といった心境だったのかもしれませんね。

才能のある真面目が良かったのか藩政改革を行って名君とまで呼ばれるようになり、実績を世に知らしめていった。

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幕末政治の為政者としての井伊直弼

もともとは鎖国論者であったのだが、当時の老中首座であった阿部正弘藤木直人)が譜代大名中心の幕政体制の見直しのために雄藩(ここでは徳川斉昭伊武雅刀)、松平慶永津田寛治)ら)の意見も取り入れるようにしていた。

その徳川斉昭がしきりに攘夷論を押していたために、政治的な対立として開国派として立たざるをえなかったようです。

現代政治の与党と野党のようなイメージですかね。

政治をあまり知らない私からみると面倒くさいやりとりだなぁとも思えてしまうような政治的対立ですが、国政の大きな偏りを防ぐためには必要不可欠なことなんでしょうね。

この後政治の世界ならではのドロドロな対立は深まるばかりで、阿部正弘が死去することで均衡が崩れることになる。

当時老中首座であった堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽直弼を大老とするよう将軍周辺が動いた。

このことから井伊直弼は図らずも大老に就任した。

デジャブな感じですね。

今回も棚ぼたのようなイメージですが、当然政治工作があったようですが、徳川将軍に対する忠義が厚く、真面目な井伊直弼が計算高いとは私は思えなくて、やはり茶人でもあり人柄の良さで代表に押し上げられたと私は思います。

外国からの接触もあった次期で幕末の動乱の中、「責任の重い職はあいつにやらせよう」的な思いもあったのかもしれませんしね。

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安政の大獄から桜田門外の変

欧米列強の怖さを知っている井伊直弼はハリスが来日して、条約調印を強要してきたときにまだ朝廷の勅許がとれていなかったために、交渉の代表に対してとにかく返答を引き伸ばすというニュアンスで伝えたことが失敗し、日米修好通商条約が調印されてしまう。

この無勅許での調印に対してまた一橋派から責められるが、ときはすでに遅しであった。

孝明天皇が戊午の密勅によって水戸藩から幕府政治を避難すると、これは幕藩体制を無視した秩序の崩壊につながる行為であるという形で、ますます熱を帯びていく。

戊午の密勅の首謀者を捉え、尊王攘夷派が過激に意見を公言する風潮にあったためにそういった影響力の強い人物を次々に捉えて安政の大獄という粛清がはじまることになる。

一度の失敗を取り戻すために勢いは止まらなかった。

自分が元々鎖国論者であったにもかかわらず、意に反して尊王攘夷派を処刑していく気持ちは到底計り知れないが、無秩序になるよりは一旦は熱を冷ます必要があったのだろう。

処刑される人の中には吉田松陰橋本左内風間俊介)などおなじみの著名人がいた。

そんな中、証拠となる戊午の密勅を水戸藩に対して渡すように迫っている間に桜田門外の変によって水戸藩脱藩浪士の凶刃に倒れた。

最後どういう心情であったのか、自分の最後を悟ったともとれる行動をとっている。

暗殺される直前の3月3日早朝、彦根藩邸に水戸藩浪士の襲撃を密告する投書があった。しかし直弼は供揃えを厳重にすることなく出発して変にあったという。

もう世論の矢面に立つのは疲れたのかもしれませんね。

「始めた以上は最後までやり遂げるけど、これで打たれるのも自分の人生だ」

と思っていたのかもしれません。

安政の大獄で死罪となった吉田松陰は、彦根藩主就任当時に藩政改革を行った直弼を「名君」と評している。彦根に帰国した際に、まだ自分が期待に応えていないのに領民が総出で温かく出迎えてくれることを恥じて直弼が詠んだ歌「掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに」を、松陰は兄の杉梅太郎宛書簡に記し、直弼を領民に対する哀れみの心を持った領主であると賛辞を贈った

徳川慶喜の晩年の回想録である「昔夢会筆記」には、直弼のことを「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評している。

政敵である人達にもこういった評価を受けるほどなので私にはとても井伊直弼が悪人であるようにはどうしても思えないのです。

以上、やすがお送りしました。

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